イタリアのサッカーの試合で、ゴールエリァのファールを取られてフリーキックになったことがありました。
誰もがエーッとなりました。
攻めている側もわかるミスジャッジでした。
サッカーは、ミスジャッジも含めたゲームです。
「いただき」でシュートを打っていいシーンです。
フリーキックをする選手は、フワーンと蹴って、わざとはずしました。
誰もが大拍手です。
最終的には、わざとはずしたチームが勝ちました。
サッカー場にいた人は最高のシュートを見たのです。
両チームとも「いまのは誤審」とわかって、もう1つ上の試合をしています。
見た目の試合に勝って生き残るよりも、記憶の中に生きのびています。
みんなの記憶の中に生き残ると同時に、気持ちが自分自身の人生に残ります。
審判に決められることではないのです。
ギリギリセーフかギリギリアウトかは自分の中の判断です。
ぶちキレそうなところを「危なかった。いま怒るところだったよ」というのはセーフです。
ぶちキレそうだったのがぶちキレていません。
「許した」もセーフです。
審判のミスジャッジに、「いまのはおかしい」と食ってかかるのを、ファンは見たくありません。
審判に食ってかかるのを見たくて、競技場へ行っているのではないのです。
ミスジャッジでも「いまのファールは厳しいよね」と言いながら見ています。
そんなこともあると、選手も見ている人もわかっています。
審判も「しまった」と思っています。
すべての人がここで救われるのです。
審判は、「フリーキック」と言ったあとで、「ゴメン、いまのはちょっと違った」とは言えません。
フリーキックをわざとはずすことで、審判の面子もつぶさずゲームの続行を共有できます。
これが大人です。
子どもは、みんなが感動しているのを見て「スポーツっていいな」と思います。
ただ勝つよりも上の世界があるのです。
フランスの共和制の根幹にある何かを破壊しなければその先は見えないと思います。フランス革命やフランス共和政は、否認された形でキリスト教的な核を保持している。カトリシズムの問題であり、ユマニスム(人間主義)の問題でもあります。理論的にだけでなく、実践的にこの問いに触れることはとても難しい。
結局、人種主義/反人種主義という抗争の場における「人間」という参照枠をどう考えるか、というところに行きつくのだと思います。ひとつは、西洋的普遍性の彼方に「新しい人間」を構想する方向。ファノンの『地に呪われたる者』やこの著作へのサルトルの序文は、典型的にこの革命的人間主義のあり方を示しています。このような革命的展望が放棄された後には、人間主義を「良いヒューマニズム」と「悪いヒューマニズム」に区別するさまざまな手続きしか残らない。実際、ヨーロッパでは、議論はその方向に回帰しつつあります。近年のバディウやジジェクの主張には革命的人間主義の回帰が認められますが、「差異」や「他者」の思考を掘り下げる代わりに、「人間」という枠を再設定しようとする徴候が見られなくはありません。私の考えでは、フランスの文脈で本当に大事なのは、共和制の「他者」をどう考えるのかということのはずなのですが。
その点バリバールは、アルチュセール、フーコー、デリダの思想的遺産を出来るだけ生産的に継承しようとしていて、その立場からレイシズムとユマニスムの関係を精緻に分析しています。レイシズムとは「人間とは何か」という問いにとりつかれた思想であると彼は言います。「われわれこそが他民族以上に優れて人間的である」という主張は、必然的に「劣位の人間」たち、ある特定の文明的観点から下位と見なされる人びとを生み出さざるを得ません。そして近代の複数のキリスト教文化の間で、人間性をめぐる抗争が激化するなかでレイシズムは形成されていったと見ることができます。近代レイシズムは、もともとはキリスト教内部の抗争から生まれたものです。ユダヤ教、キリスト教、イスラムというアブラハム的起源を分有する一神教間の抗争からではなく、むしろキリスト教内部の抗争に全世界が巻き込まれ世界化していったと見るべきでしょう。「人間性の尊重」という定式がそれだけでは反レイシズムの主張として不十分である理由も、ひとつにはここから説明できるのではないでしょうか。
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鵜飼哲(聞き手=李孝徳)、「共和主義とレイシズム」、in 『レイシズム・スタディーズ序説』、p .148-149. (via cahiers-ryoku)
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どうでもいい人への態度こそが、まさにその人の性格なのです。
・その国の国民性を知るには、その国で最もポピュラーな賭博を知ればいい。中国人の本質を知るには麻雀、イギリス人はブリッジ、アメリカ人はポーカー。いま世界は、アメリカ人のポーカー精神によって、政治もビジネスも支配されている